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けいさいえいせん・1791〜1848年

渓斎英泉

江戸後期の浮世絵師です。妖艶で存在感のある美人画で人気を集め、天保年間には風景画にも力を注ぎました。歌川広重と分担した「木曽海道六拾九次之内」の、日本橋から始まる最初の図を手がけています。

渓斎英泉は寛政3年(1791)、江戸の下級武士の家に生まれました。本名は池田義信です。幼いころに狩野派の絵を学び、若くして仕官しましたが長く続かず、浮世絵師の菊川英山のもとで修業を積みました。はじめは師に似た上品な美人画を描きましたが、やがて北斎の画風にも学びながら独自の作風を築きます。目元に色気をたたえ、体つきに重みのある英泉の美人は、文政年間(1818〜30)に一世を風靡しました。

天保年間に入ると美人画の数は減り、英泉は風景画に新しい道を求めます。輸入の青い顔料「ベロ藍」をいち早く使った絵師の一人ともいわれ、藍一色の濃淡で摺る藍摺の作品で評判をとりました。天保6年(1835)ごろ、「東海道五拾三次之内」の版元保永堂に起用されて木曽街道の揃物を描き始め、日本橋から本庄までの11図など24図を担当しましたが、途中から歌川広重に引き継がれました。

天保の改革で浮世絵の取り締まりが厳しくなると、晩年は一筆庵の名で戯作者として筆を執り、嘉永元年(1848)に亡くなりました。英泉の美人画は海外でも知られ、1887年にはフィンセント・ファン・ゴッホが、パリの雑誌の表紙に載った英泉の花魁の図を油彩で写しています。

渓斎英泉の作品