はせがわとうはく・1539〜1610年
長谷川等伯
能登の
長谷川等伯は天文8年(1539)、能登国七尾(現在の石川県七尾市)に生まれました。若いころは「信春」と名のり、地元で日蓮宗の寺に納める仏画や肖像画を描いています。元亀2年(1571)ごろ、30代で京都へ出たとする説が有力です。能登時代の仏画は、石川県や富山県の寺などに伝わっています。
京都では、日蓮宗の本法寺を足場に、千利休ら堺の茶人とも交わりました。利休の肖像も描いています。文禄2年(1593)ごろには一門を率いて、豊臣秀吉が建てた祥雲寺の障壁画を手がけました。いまは京都・智積院に伝わり、等伯の「楓図」と、息子の久蔵の作とされる「桜図」などが国宝です。金地に大きな木を堂々と描く画面は、当時の最大流派だった狩野派と並ぶ評価を得ました。等伯は、自ら「雪舟五代」と名のり、水墨画の大家・雪舟の流れを継ぐ絵師であることを示しました。「楓図」は、画面いっぱいに伸びる太い幹と色とりどりの葉が目を引きます。
一方、「松林図屏風」(東京国立博物館)は、墨だけで霧の中に浮かぶ松林を描いた作品です。描かれていない余白が、湿った空気と奥行きを感じさせます。慶長15年(1610)、徳川家康に招かれて江戸へ向かい、到着して間もなく亡くなりました。
